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http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%8A%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%BF%E6%BC%94%E8%8A%B8%E7%89%B9%E9%81%B8&oldid=30940200



放送日、落語演者名・演目名、音源データ [編集]

以下、放送された「演者名・演目名」、及び「音源データ」。「中入り」で放送された音楽の「演奏者・曲目名」で番組中に紹介されたデータ。 (「中入り」での音楽の放送は、記載のない場合を除き 「特別興行」以外は 16:20-16:23 での放送)

2008年 [編集]

2009年 [編集]

  • 1月4日
    • 4代目柳亭痴楽「運転手募集」(1956年(昭和31年)2月29日放送 NHKラジオ「放送演芸会」)
    • ハ−ビ−・ハンコック「ウォーターメロン・マン」
    • 5代目古今亭志ん生「文違い」(1956年(昭和31年)12月12日放送 NHKラジオ「放送演芸会」)
  • 1月11日1月18日1月25日
    • 番組編成上、「大相撲 初場所」両国国技館からの中継放送により、番組は放送休止
  • 2月1日
    • 10代目桂文治「だくだく」(1987年(昭和62年)2月6日放送 NHKテレビ「演芸指定席」)
    • ケニー・バレル「ミッドナイト・ブルー」
    • 8代目林家正蔵「淀五郎」(1969年(昭和44年)2月11日放送 NHKテレビ「古典落語」)
  • 2月8日
    • 5代目春風亭柳昇「日照権」(1985年(昭和60年)7月13日放送 NHKテレビ「演芸指定席」)
    • ジョン・コルトレーン「ブルー・トレイン」
    • 5代目柳家小さん「禁酒番屋」(1985年(昭和48年)4月13日 第166回 NHK東京落語会 収録)
  • 2月15日
    • 5代目古今亭志ん生「権兵衛狸」(1960年(昭和35年)10月13日放送 NHKラジオ「ラジオ芸能ホール」より「志ん生五夜」の第四夜)
    • グラント・グリーン「抱きしめたい」
    • 京山幸枝若 浪曲米屋剣法」(1984年(昭和59年)7月21日放送 NHK総合テレビ「NHK東西浪曲大会」)
  • 2月22日
    • 5代目古今亭志ん生「そば清」(1956年(昭和31年)5月6日放送 「ラジオ寄席」)
    • 女子十二楽坊「エンターティナー」
    • 3代目三遊亭金馬「夢金」(音源データ紹介なし)※スタジオ録音客なし
  • 3月1日
    • 三遊亭圓彌七段目」(1987年(昭和62年)2月27日放送 NHKテレビ「演芸指定席」)
    • 女子十二楽坊「メロディ・フェア」
    • 5代目桂文枝「莨の火」(1978年(昭和53年)7月20日 第99回 NHK上方落語の会 収録)
  • 3月8日
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この記事は、「騒音公害」についてまとめたものです。
制作:harukazehonpo.hfuoe


日常生活の中の“騒音”
普段の生活の中には音を生むものが数多く存在する。その中には、人に好ましくない影響を及ぼす音や、不必要・邪魔な音も存在し、それらを騒音とよぶ。
自動車・鉄道などの交通関係、テレビ・ラジオの音や話し声などの生活音工場や工事現場、空港・遊園地・学校など、さまざまなところから騒音は発生している。
 
騒音が人体に与える影響
不快な騒音により、心理的不快感やイライラ、睡眠妨害など、人体にさまざまな影響が及ぶ。それが長期間にわたって続くと、精神障害・重度の脳障害など、重大な影響に悪化する可能性もある。
 
騒音規制法
昭和34(19 68)年、<工場及び事業場における事業活動並びに建設工事に伴って発生する相当範囲にわたる騒音について必要な規制を行なうとともに、自動車騒音に係る許容限度を定めること等により、生活環境を保全し、国民の健康の保護に資することを目的>とする、騒音規制法が制定された。
その規制の対象は、
都道県知事らが指定する特定の工場や事業場
特定建設作業
自動車騒音
深夜騒音等
などである。
 
騒音を原因とする主な事件・裁判
騒音が原因で、事件・裁判に発展するケースもある。
20 05年の奈良騒音傷害事件では、奈良県生駒郡平群町の主婦が約10年間にわたり大音量の音楽を流すなどの方法で騒音を出し続け、それにより近所に住む夫婦を不眠・目眩などで通院するに至らしめ、県警はこの主婦を傷害罪の容疑で逮捕した。この事件は、騒音を出す現場が、夕方ニュース番組(VO ICE)での取材や被害者の録画によって放映され、メディアにおいても大きく取り上げられた。刑事裁判では最高裁まで争われ、懲役1年8か月の有罪判決となった。
 
対策
企業や行政により、さまざまな対策が練られてきた。
その一つに、騒音源の音を拾い、それと逆相になるような音を作りスピーカーから出力し、結果的に打ち消しあって騒音レベルを下げることを目的とした「消音スピーカー」も開発された。
今後、対策の研究・開発が進むことが期待されている。



 

主な発生源
交通関係
自動車、オートバイ - エンジン、舗装路面の走行音、過積載、消音器の改造、整備不良、クラクション、高架道の継ぎ目、暴走走行で発生するスキール音。
鉄道(新幹線、在来線) - 踏切警報音、レールの継ぎ目、鉄橋、高架橋脚、モーター音など。
航空機(空港、軍事基地) - 飛行機(ジェットエンジン、プロペラ)、ヘリコプター(プロペラ)。
緊急自動車 - パトロールカー、消防車、救急車などのサイレン。
モーター競技施設サーキットなどの自動車競技
宣伝や選挙、右翼団体、市民団体などの拡声器(街宣車)。
生活音
カラオケ、ピアノ等の楽器演奏。
犬、猫、鳥、昆虫 - 無駄吠え、猫のさかり、ムクドリやカラスの群集、セミや蛙の鳴き声。
テレビ、ラジオ、洗濯機、目覚まし時計のベル、掃除機、業務用冷凍機・冷蔵庫。
生活音 - 足音、椅子の引く音、床への落下物、ドアの開閉音水洗トイレなどの排水。
人の声(話し声・笑い声・騒ぎ声・泣き声など) - 井戸端会議、子供、(夫婦)喧嘩など。
風鈴 - 季節はずれのものや、強風時。
空調設備 - 換気扇、エアコン室外機。
その他
工場の機械関係、警報音、建設機械、農業機械、土木建築現場。
遊園地 - ジェットコースター、プールなど。
学校などの公共施設関係 行事・校内放送、公園での子供の遊び声。
遊技施設 - パチンコ玉やメダルの循環音、ゲーム機の効果音など。
 
騒音が人体に与える影響
心理的不快感、イライラ
睡眠妨害
難聴
集中力の低下
精神障害など
重度の脳障害
 
騒音を原因とする主な事件・裁判
1970年(昭和45年)代:成田空港問題(成田空港反対闘争)
1974年(昭和49年):ピアノ殺人事件
1975年(昭和50年)以降:航空自衛隊小松基地訴訟
1976年(昭和51年):福岡空港訴訟
1980年(昭和55年)代以降:横田基地、厚木基地、嘉手納飛行場を巡る裁判
1980年(昭和55年):東海道新幹線公害訴訟
1981年(昭和56年):大阪国際空港訴訟
1982年(昭和57年):中野テレビ騒音殺人事件
2005年(平成17年):奈良騒音傷害事件
「騒音おばさん」と言われる、大音量の音楽や布団叩きを使った騒音傷害事件。懲役1年8か月の実刑判決。「引っ越し、引っ越し、さっさと引っ越し、しばくぞ!!」のフレーズが有名になった。
2007年(平成19年):西東京市「西東京いこいの森公園」の子供の大声
2007年(平成19年)10月3日:東京都板橋区「マンション階上の子供の騒音裁判」
慰謝料36万支払い命令
2008年(平成20年)10月25日:『足音がうるさい』と男性をナイフで切りつけ逮捕。
 
この記事は、「行書体」についてまとめたものです。
制作:harukazehonpo.hfuoe


行書体(ぎょうしょたい)とは
漢字の書体の一つ。楷書が一画一画をきちんと書いているのに対し、行書体ではいくらかの続け書きが見られる。しかし、草書のように、楷書と大幅に字形が異なるということはないために、楷書を知っていれば読むことは可能である。
 
概要
行書は隷書の走り書きに興る。王羲之などの書が有名。行書は草書と楷書の中間的な存在であるが、明確な線引きは不可能である。草書に比べて厳格な書体、楷書に対して砕けた書体という感覚的な違いで大まかに分類される。行書は草書ほどではないが速記向きであり、楷書ほどではないが明快に判読できることから、古代中国では公務文書や祭礼用の文書に用いられた。
 
 
代表作
詩歌の巻頭言の草稿として王羲之が著した『蘭亭序』や、北周の詩を清書した遂良の『枯樹賦』、内乱で惨殺された甥の祭礼に備えて書いた顔真卿の『祭姪文稿』などが代表的な書作品である。空海最澄が交わした行書書簡、『風信帖』と『久隔帖』はともに国宝である。
 
 
碑文
日常的な書体とみなす意識が強く、文書としては広く流布しているが、碑文となると唐太宗皇帝が書いた『晋祠銘』が現在知られる最も早い行書碑である。王羲之の行書を集字・編集した『集王聖教序』も第三者の手が入っているとはいえ数少ない行書碑の一つといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%9B%B8より抜粋)

行書を歴史的に見た場合
 時たま、「楷書をくずしたのが行書、その行書をもっとくずしたのが草書」といった理解をしている場合が見られるが、これは必ずしも正しいとは言えない。特に、行書をくずしても多くの場合草書にはならない。また、楷書をくずすと行書になるというのは、ある部分で 妥当な表現であるが、その発達過程からすると正しくない。
 
 手書き文字の書体を大まかに分類すると、篆書・隷書・楷書・行書・草書の5つに分けることができる(右図)。もっとも、この分類も現代の視点から見てのことであるし、また本来的にいって厳密に分けることはできない。なぜなら書体は字形上確立されたスタイルを分類したものであり、字体上の差異がある場合はともかく、それがない場合は分類に明確な基準を持たないからである。本稿では、大まかな分類により話を進める。
 
 この5つの書体は、二つに分けることができる。一つは正式な場面に使ういわゆる正書体、もう一つは事務作業・メモ・書簡などに使ういわゆる通行書体である。(通行字体という概念もあるが本稿の趣旨と異なるため省略する。) 正書体は、篆書・隷書・楷書、通行書体は行書・草書となる。
 
 手書き文字・漢字の歴史は現在のところ約3000年とされるが、それぞれの時代に正書体と通行書体が存在していたと考えられる。特に篆書の初期・中期をのぞいてその存在を確認することができる。もちろん、歴史的に見ると書体の発達過程には、現在分類されるような形での書体が成立していない時期もあるが、機能的には正書体・通行書体があったという意味である。
 
 さて、書体の発達過程については、「正書体が完成すると、略されて通行書体ができた」のであろうか、それとも「日頃使われる通行書体が完成に近づくにつれて、正書体として認められるようになった(正書体に影響を与えた)」のいずれの考え方が正しいであろうか。文字史・書法史上からみて、後者が正解といってよい。正式な場面で使う書体は、格式を重んじるためか伝統が重視され、なかなか変わろうとしない。それに対して、日常用いられる書体の方は使いやすいように変化し、仮に歯止めをかけようとしても効かなかったのであろうと思われる。また、行書の完成期は、楷書の発達期と一致しているので字体的にも近い関係にあるが、草書の発達期はそれに先駆けているため字体の相違が多い。そのため、楷書・行書をいくらくずしても草書にはならないし、草書を読むためには草書の字体を覚えなければならない。
http://www.shosha.kokugo.juen.ac.jp/oshiki/ronbun/Gyosho&Gendai1998/より抜粋)

書物として漢字には、「楷書・行書・草書・隷書・篆書」の五書体というものがあり、我々が日常で見る書体は楷書と行書である。今回は行書について歴史から運筆法まで触れます。
 
まずは、行書の歴史について触れてみましょう。一般的に楷書を速書きした書体が、行書や草書であると思われがちです。それでは書体の歴史をたどってみると、その誕生は少し違っているようです。
漢字の発祥地中国の漢(前漢・後漢)時代(紀元前二〇〇年頃~紀元後二〇〇年頃)は、隷書が基本書体として使用されていた。それ以前に使用されていた篆書に比べるとかなり能率よく書くことが出来ましたが、時代が進むにつれて速書きが出来る書体が求められ、楷書と草書の元になる形になる形が誕生した。
 
行書は、この二書体の長所を生かした実用書体として、後漢時代に生まれたと考えられている。その後、東晋時代(三一六年~四二〇年)の能書、王羲之(おうぎし)等の出現によって用筆・字形が洗練され、一つの書体として完成されていったのです。
http://www.oct-net.ne.jp/~kyouhei/shoden-page2.htmより抜粋)


 
■王羲之
 
 王羲之は山東省の琅邪臨儀沂の豪族出身です。仕官して右軍将軍の位にあったことがあるので王右軍ともいいます。出世を望まなかった彼は自ら地方官に転出し、会稽内史をつとめました。良吏としての評判も高かったのですが、早くに官を辞し、風光明媚で気候も温順なその地会稽で晩年を過ごしました。道士達と交流しながら悠々自適の生活を送ったといわれています。
 彼の本領はやはり書であり、幼少の頃から上手く、彼の師匠である衛夫人も才能には一目置いていたそうです。三国から西晋にかけては行書、草書が広く行われていました。その流れをうけてこれらの書体は一層美しく洗練されていくことになります。草書・行書・楷書の美的工夫は、必然として用筆法の多様化を生みました。これらは書にとって大きな進展であり、他の追随を許さない羲之の貢献度は計り知れないものがあります。
 王羲之は行書体、草書体において特に評価が高いですが、楷書においても才能を発揮されており、章草もよくしたといいます。さらに唐に書かれた晋代の正史、「晋書」には王羲之について「尤も隷書を善くし・・・」とあり、彼がほとんどの書体に通じていたことが分かります。また、王羲之の書が日本書道に与えた影響は計りしれません。例えば空海の書法の基本は王羲之に影響されたことが大きいようです。
 王羲之は、唐以前の能書「古今四傑」の一人であり、中でも第1人者であると多くの書論書の中で語られています。ちなみに、彼の第7子である王献之とともに二王とも称されています。
 
以下は王羲之の評価を紹介したものです。
 
●羲之の書は、骨格や肉付きについてその加減はやりすぎるほどゆきとどき、紅やおしろいをつけていないような清らかさがあり、あたかも、かの雲間をわけて輝く太陽を見るかのごとく、また、はちすの花が泥水からぬけでたようである。(唐・李嗣真「書後品」
 
●行書体のように曲線美を表現出来る名手の第一は、やはり何と言っても王羲之をおいて他にはなかろうか 。点画の形成は理想的で過不足無く、情緒性豊かな作風で、また勢いがあり、ホウショ(鳳凰が高く飛ぶさ  ま)・リョウバン(豪傑の野に潜み居ることのたとえ)のたとえも引くことができよう。愛翫鑑賞するに汲めども尽きない魅力があり、手本として尊敬して習うにはこの人を置いて他にない。その他は論外である。(太宗は、羲之の名品中、ことに行書「蘭亭序」を愛好しましたが、その評の一節。「晋書」
 
●羲之の筆法は自由自在、融通無碍にして意のままに筆を運んでいる。用筆の常識を超えた神秘の力を持したものといわんばかりである。(宋・黄庭堅「山谷題跋」)
http://www.osakakyouzai.com/jinbutu1.htmより抜粋)

主な法帖
楷書
●楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年)
戦国時代の燕の宰相であった楽毅の言行を、三国時代の魏の夏侯玄が論じたもので、羲之の小楷として第一位に置かれる。日本では光明皇后の臨書したものが正倉院の御物として遺されている。
●黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年)
後漢の漢安2年(143年)、水死した父の屍を求めて投身した孝女曹娥の事跡を表彰したもので、羲之の書であるというが確証はない。南宋になってはじめて出土した。
●東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)
●孝女曹娥碑(こうじょそうがひ) - 升平2年(358年)
後漢の漢安2年(143年)、水死した父の屍を求めて投身した孝女曹娥の事跡を表彰したもので、羲之の書であるというが確証はない。南宋になってはじめて出土した。
 
行書
●蘭亭序(らんていじょ) - 永和9年(353年)
●集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)
『集王聖教序』ともいう。唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門(しゃもん、僧)懐仁が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。
羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
●興福寺断碑(こうふくじだんぴ)
唐の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「矣」の字を「呉」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。
●喪乱帖(そうらんじょう)
王羲之の手紙の断片を集めたもので、『喪乱帖』8行、『二謝帖』5行、『得示帖』4行の計17行が一巻になっている。書簡のはじめに「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。現在、日本で御物になっているが、右端の紙縫に「延暦勅定」の印三顆(いんさんか、印は顆で数える)が押捺されているところから、桓武天皇の御府に既に存在していたことが分かる。
●孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
『哀禍帖(あいかじょう)』『九月十七日帖』『憂懸帖(ゆうけんじょう)』の三帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印三顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
●快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)                         ●姨母帖(いぼじょう)
●奉橘帖(ほうきつじょう)
 
草書
●十七帖(じゅうしちじょう)
王羲之の手紙29通を集めて一巻としたもので、蜀郡の太守の周撫に与えた手紙が多い。初行に「十七日」の句があるのでこのように呼ばれる。草書として最高の作品といわれている。
●游目帖(ゆうもくじょう)                                         ●初月帖(しょげつじょう)
●寒切帖(かんせつじょう)                                      ●遠宦帖(えんかんじょう)
●妹至帖(まいしじょう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8Bより抜粋)
この記事は、「仮名の発生」についてまとめたものです。
制作:harukazehonpo.hfuoe


かなの発生
かなという呼び名が歴史に現れたのは、「宇津保物語(976-983)で、この書に分類が書かれている。
①   男手「草仮名」
②   女手「ひらかな」
③   男にてもあらず女にてもあらず「かな」
④   片仮名
⑤   葦手
醍醐天皇は、905年に、日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」編纂の勅を下す。908から13頃に完成されたと考えられている。
和歌も漢詩と同様に公の文芸となった。古今和歌集は原本を平安時代に失っている。
(出典1.)
 
継色紙
「万葉集」や「古今和歌集」などから秀歌を選んで書写した歌集の断簡である。本来は色紙ではなく、続いている方形の料紙二枚に和歌一首が書かれているので継色紙と言う。大部分が見開きの二枚に余白を生かした散らし書きとなっていることと、独特の草仮名を使用していることが特色で、仮名書きの運筆は完成の域に達している。古来、小野道風筆と伝えられているが、10世紀から11世紀にかけての書写と考えられる。
(出典2.)
 平安時代の撰集を書写した断簡。もとは,粘葉装の冊子本。見開きの部分にのみ,和歌1首を散らし書きにする内面書写の形式で揮毫される。その形が色紙を継いだように見えることから「継色紙」の名に呼ばれる。『続万葉集』の抄写本ではないかとする説がある。
(出典3.)
 藤井達吉の継色紙は、どちらかというと継紙に近く、紙のみならず布や螺鈿なども材料として使い、それらを自由奔放に継ぎ合せ、絵の具で着色し、歌を散らす一種のコラージュである。平安時代に幾人もの手を経て作り上げられたものを、達吉は一人で成し遂げた。
失われてしまった伝統技術の復活を試み、その上に独自性を加えた創作は、素材・歌・書・絵画・工芸が一体となった総合芸術である。
(出典4.)
 
寸松庵色紙
 「古今和歌集」四季の歌から、作者名と和歌一種を書写しています。
 堺の南宗寺の襖に36枚貼ってあったうち12枚を、佐久間将監が掌中に収め、大徳寺境内「寸松庵」の家宝として伝来したことに「寸松庵色紙」の名が由来します。
 とりわけ書の風格の高さ、美しい連綿と散らし書き、筆線の重厚味、強靭さ、変化に富んだ 文字は、他を寄せ付けない気品の高さを誇り、今もなお人々を魅了しています。 「三色紙」の一つ。
(出典5.)
 「古今和歌集」の四季の歌を書写したもので、もとは冊子であったが今は色紙の形になっている。「継色紙」「升色紙」とともに三色紙の一つに上げられ、平安時代を代表する名筆である。元織田家の臣佐久間将監の旧蔵で、大徳寺の茶室「寸松庵」に因みこの名がある。筆者は紀貫之と伝えられるが確証はない。
(出典6.)
 
升色紙
 料紙が升のような方形であることから「升色紙」と呼ばれます。
 『清原深養父(きよはらふかやぶ)集』を書写した断簡で、現在、模写本も含めて二十九葉三十首が確認されています。暢達した線条、リズミカルな連綿や重ね書き、効果的な墨継ぎの強調から成る散らし書きは、極めて巧妙な手法を見せ、そこには王朝美の一典型とされる〈なまめかし〉の優美さがあります。
 なお、「古」や「新」の集付(『古今集』『新古今集』の意)や校合書(こうごうがき)などは藤原定家の筆とされ、彼の所蔵本であったと推察されます。
(出典7.)
仮名美の頂点を占める三色紙の一つ。清原深養父の断簡で、枡形の料紙によりこの名で呼ばれます。雲母砂子を撒いた美しい染紙に尽くされた巧妙な筆致、変化に富む散らし書きはモダンとも言える表情を示します。
(出典8.)
 
 
 
 
(出典)
1.    http://kotenshohou.com/bun/syodourekishi.htm
2.    http://www.moaart.or.jp/japanese/art/calligraphy0006.html
3.    http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=85640
4.    http://www17.ocn.ne.jp/~obara/tenji/washi.html
5.    http://homepage3.nifty.com/meikokai/tugisikisi.html
6.    http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/book/04.html
7.    http://homepage3.nifty.com/meikokai/masusikisi.html
8.    http://www.syoyubooks-e.com/product/283

藤原行成
 
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい、天禄3年(972年) - 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は平安時代中期の廷臣。一条朝四納言の一。右少将藤原義孝の男。当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき、「権大納言の筆跡」の意)と称された。世尊寺家および、書道世尊寺流の祖。名前の読みは「ゆきなり」だが、「こうぜい」と有職読みすることが多い。
 
・略歴
天禄3年(972年) 藤原義孝の息男として生まれる。(祖父・一条摂政謙徳公藤原伊尹の猶子となるも、祖父は同年中に薨去。)
天延2年(974年) 右少将であった父が死没。
天元5年(982年) 元服。
正暦2年(991年) 日記『権記』の記載が始まる(寛弘8年(1011年)まで)。
長徳元年(995年) 藤原実方に喧嘩を売られたが相手にせず、一条天皇の蔵人頭に抜擢される。以後天皇側近として活躍。
寛仁4年(1020年) 極官の正二位権大納言に至る。
万寿4年(1027年) 死去(藤原道長と同日)。 
 
・政治史上の位置づけ
藤原北家摂関流に生まれながら、出生後まもなく父祖を失い、一族の没落を受けて青年期は沈淪した。しかし親友源俊賢の推挙によって地下から一条天皇の蔵人頭に抜擢されてから運が開き、恪勤精励を以って天皇(一条)・執政(道長)の両方に信任された。能吏として四納言の一に列す。ただし、晩年一条天皇が次期東宮に敦康親王を擁立して行成にその後見を期待したものの、行成は却って道長の意向を受けてその外孫である敦成親王(後一条天皇)の皇位継承を一条天皇に迫ったとされている。今に伝わる摂関期の貴重な基本史料である日記『権記』(ごんき)を残した功績も大きい。『枕草子』『大鏡』などに登場し、逸話は多い。
 
当時の実力者藤原道長もその書道を重んじ、行成が『往生要集』を道長から借りた際には「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。
 
ちなみに、道長と同日に死去したために、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、彼の死については気に留めるものが殆どいなかったと言われている。
 
 
・書道界の評価
小野道風・藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられる。和様書道の確立に尽力した、世尊寺流の宗家として評価される。
上代様の完成者。彼の書風は、小野道風や藤原佐理よりも和様化がさらに進んだ、優雅なものである。
 
 
・真跡
白楽天詩巻 - (白氏詩巻)(国宝)東京国立博物館蔵
本能寺切 - (国宝)本能寺蔵
後嵯峨院本白氏詩巻 - (国宝)正木美術館蔵
敦康親王関係文書 - (御物)行成の日記「権記」の自筆原本の一部と推定されている。
書状 - (重要文化財)個人蔵
など。いずれも、漢字体で、仮名は残っていないとされる。
 
 
・著作
庶務に通じていた行成は有職故実書『新撰年中行事』を著した。同書は後世盛んに利用され多くの逸文が知られているが、全体については伝存せず、散逸したものと考えられていた。しかし1998年、京都御所内東山御文庫に所蔵されていた後西天皇の宸筆『年中行事』という二冊の書物が『新撰年中行事』の写本であることが逸文との照合等により判明し、研究者の注目を集めている。
 
 
・系譜
父:藤原義孝 母:源保光の女
妻:源泰清の女(姉)
男子:藤原実経(998?-1045) 男子:藤原良経(1001-1058)
女子:源顕基室 女子:源経頼室
妻:源泰清の女(妹)
男子:藤原行経(1012-1050) 女子:藤原長家室(1007-1021)
妻:橘為政の女
男子:藤原永親(?-1083)
 
・伝記
『人物叢書 藤原行成』 黒板伸夫著、吉川弘文館刊
 
(出典)
 

 
高野切
 
高野切 第1巻 巻頭 五島美術館蔵高野切(こうやぎれ)は、平安時代後期、11世紀に書写された『古今和歌集』の写本の通称である。『古今和歌集』の現存最古のテキストとして、日本文学史、日本語史の研究資料として貴重であるとともに、その書風は仮名書道の最高峰として古来尊重され、日本書道史上もきわめて重要な作品である。
 
 
・概要
『古今和歌集』を書き写したもので、当初は20巻(和歌1100首前後)からなっていた。現存するのはその一部である。料紙は、上質の麻紙で、表面に雲母砂子(きらすなご)を散らしたものを用いている。麻紙は経典の書写に多く用いられ、和歌集の料紙として用いた例は少ない。
 
「高野切」などの「切(きれ)」とは美術史、書道史、茶道などの用語で、元来巻物や冊子本であった和歌集、漢詩集などの写本を、鑑賞用とするため切断し、掛軸に仕立てたり、手鑑(でかがみ)と称するアルバムに貼り込んだりしたものを指す。こうした鑑賞形式は、室町時代以降、茶道の隆盛とともに盛んになった。こうして切断された紙片のことを「断簡」と称するが、高野切本古今和歌集のうち、巻九の巻頭の17行分の断簡は豊臣秀吉が所持していた。この断簡は後に木食応其(もくじきおうご)に下賜され、高野山に伝来したため、「高野切」の名が生じた。この巻九巻頭の断簡は現存し、大阪の湯木美術館が所蔵する。
 
『古今和歌集』は和歌の規範として、平安時代の貴顕には必須の教養とされ、尊重されてきた。そのため写本も多く、平安時代にさかのぼる写本だけで約60種にのぼると言われているが、その中でも最古写本であり、書道の手本としても尊重されているのが高野切本である。
 
 
・筆者と書風
高野切の筆者は古来紀貫之(882-946)と伝承されてきたが、実際は貫之の時代より1世紀ほど後の11世紀の書写である。
 
近代における筆跡研究の進展により、高野切の筆跡は3種に分かれることが明らかにされており、便宜上、「第一種」「第二種」「第三種」と称されている。
 
『古今和歌集』は全20巻と序からなるが、高野切本の現存する巻は巻一、二、三、五、八、九、十八、十九、二十で、残りの巻は発見されておらず、失われたものと思われる。このうち、巻五(個人蔵)、巻八(山口・毛利博物館蔵)、巻二十(高知県蔵)の3巻のみが巻物として完存し(3巻とも国宝)、巻一、二、三、九、十八、十九は断簡として各所に分蔵されている。巻一の巻頭部分の断簡は東京・五島美術館の所蔵である。
 
 
<第一種>
第一種の筆者は現存する巻のうち、巻一、九、二十を担当している。古今集の冒頭の巻一と最後の巻二十を担当していることから、3人の筆者の中でもっとも地位の高い人物と推定される。筆者については藤原行成の子の藤原行経(1012-1050)とする説が有力だが、確証はない。第一種の書風は21世紀の今日に至るまで仮名書道の手本として尊重されている。書風は、秀麗温雅で、字形は直筆を主として、くせがなく、連綿(数文字を続けて書くこと)は控えめである。第一種と同筆または同系統の筆跡としては、大字和漢朗詠集切(諸家分蔵)、深窓秘抄(藤田美術館蔵)、和歌躰十種(東京国立博物館蔵)などがある。
 
 
<第二種>
第二種の筆者は現存する巻のうち、巻二、三、五、八を担当している。美術史家の小松茂美は第二種の筆者を源兼行(1023-1074頃活動)と推定した。九条家本延喜式の紙背文書(しはいもんじょ)中の兼行の筆跡との一致など、さまざまな観点から、兼行を筆者とする説はほぼ定説化している。高野切の3種の筆跡のなかではもっとも個性が強く、側筆を多用した右肩上がりで肉太の字形に特色がある。第二種と同筆または同系統の筆跡としては、平等院鳳凰堂壁画色紙形、桂宮本万葉集(御物)、雲紙本和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、関戸本和漢朗詠集切(諸家分蔵)などがある。
 
 
<第三種>
第三種の筆者は現存する巻のうち、巻十八、十九を担当している。筆者については藤原公経(?-1099)とする説もあるが、なお未詳である。書風は穏やかで、高野切の3種の筆跡のなかでは、もっとも現代風であると評されている。第三種と同筆または同系統の筆跡としては、粘葉本(でっちょうぼん)和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、元暦校本万葉集巻一(東京国立博物館蔵)、伊予切(和漢朗詠集の断簡、諸家分蔵)、蓬莱切(未詳歌集の断簡、諸家分蔵)、法輪寺切(和漢朗詠集写本の断簡、諸家分蔵)などがある。
 
 
(出典)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%88%87


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