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この記事は、「仮名の発生」についてまとめたものです。
制作:harukazehonpo.hfuoe


かなの発生
かなという呼び名が歴史に現れたのは、「宇津保物語(976-983)で、この書に分類が書かれている。
①   男手「草仮名」
②   女手「ひらかな」
③   男にてもあらず女にてもあらず「かな」
④   片仮名
⑤   葦手
醍醐天皇は、905年に、日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」編纂の勅を下す。908から13頃に完成されたと考えられている。
和歌も漢詩と同様に公の文芸となった。古今和歌集は原本を平安時代に失っている。
(出典1.)
 
継色紙
「万葉集」や「古今和歌集」などから秀歌を選んで書写した歌集の断簡である。本来は色紙ではなく、続いている方形の料紙二枚に和歌一首が書かれているので継色紙と言う。大部分が見開きの二枚に余白を生かした散らし書きとなっていることと、独特の草仮名を使用していることが特色で、仮名書きの運筆は完成の域に達している。古来、小野道風筆と伝えられているが、10世紀から11世紀にかけての書写と考えられる。
(出典2.)
 平安時代の撰集を書写した断簡。もとは,粘葉装の冊子本。見開きの部分にのみ,和歌1首を散らし書きにする内面書写の形式で揮毫される。その形が色紙を継いだように見えることから「継色紙」の名に呼ばれる。『続万葉集』の抄写本ではないかとする説がある。
(出典3.)
 藤井達吉の継色紙は、どちらかというと継紙に近く、紙のみならず布や螺鈿なども材料として使い、それらを自由奔放に継ぎ合せ、絵の具で着色し、歌を散らす一種のコラージュである。平安時代に幾人もの手を経て作り上げられたものを、達吉は一人で成し遂げた。
失われてしまった伝統技術の復活を試み、その上に独自性を加えた創作は、素材・歌・書・絵画・工芸が一体となった総合芸術である。
(出典4.)
 
寸松庵色紙
 「古今和歌集」四季の歌から、作者名と和歌一種を書写しています。
 堺の南宗寺の襖に36枚貼ってあったうち12枚を、佐久間将監が掌中に収め、大徳寺境内「寸松庵」の家宝として伝来したことに「寸松庵色紙」の名が由来します。
 とりわけ書の風格の高さ、美しい連綿と散らし書き、筆線の重厚味、強靭さ、変化に富んだ 文字は、他を寄せ付けない気品の高さを誇り、今もなお人々を魅了しています。 「三色紙」の一つ。
(出典5.)
 「古今和歌集」の四季の歌を書写したもので、もとは冊子であったが今は色紙の形になっている。「継色紙」「升色紙」とともに三色紙の一つに上げられ、平安時代を代表する名筆である。元織田家の臣佐久間将監の旧蔵で、大徳寺の茶室「寸松庵」に因みこの名がある。筆者は紀貫之と伝えられるが確証はない。
(出典6.)
 
升色紙
 料紙が升のような方形であることから「升色紙」と呼ばれます。
 『清原深養父(きよはらふかやぶ)集』を書写した断簡で、現在、模写本も含めて二十九葉三十首が確認されています。暢達した線条、リズミカルな連綿や重ね書き、効果的な墨継ぎの強調から成る散らし書きは、極めて巧妙な手法を見せ、そこには王朝美の一典型とされる〈なまめかし〉の優美さがあります。
 なお、「古」や「新」の集付(『古今集』『新古今集』の意)や校合書(こうごうがき)などは藤原定家の筆とされ、彼の所蔵本であったと推察されます。
(出典7.)
仮名美の頂点を占める三色紙の一つ。清原深養父の断簡で、枡形の料紙によりこの名で呼ばれます。雲母砂子を撒いた美しい染紙に尽くされた巧妙な筆致、変化に富む散らし書きはモダンとも言える表情を示します。
(出典8.)
 
 
 
 
(出典)
1.    http://kotenshohou.com/bun/syodourekishi.htm
2.    http://www.moaart.or.jp/japanese/art/calligraphy0006.html
3.    http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=85640
4.    http://www17.ocn.ne.jp/~obara/tenji/washi.html
5.    http://homepage3.nifty.com/meikokai/tugisikisi.html
6.    http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/book/04.html
7.    http://homepage3.nifty.com/meikokai/masusikisi.html
8.    http://www.syoyubooks-e.com/product/283

藤原行成
 
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい、天禄3年(972年) - 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は平安時代中期の廷臣。一条朝四納言の一。右少将藤原義孝の男。当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき、「権大納言の筆跡」の意)と称された。世尊寺家および、書道世尊寺流の祖。名前の読みは「ゆきなり」だが、「こうぜい」と有職読みすることが多い。
 
・略歴
天禄3年(972年) 藤原義孝の息男として生まれる。(祖父・一条摂政謙徳公藤原伊尹の猶子となるも、祖父は同年中に薨去。)
天延2年(974年) 右少将であった父が死没。
天元5年(982年) 元服。
正暦2年(991年) 日記『権記』の記載が始まる(寛弘8年(1011年)まで)。
長徳元年(995年) 藤原実方に喧嘩を売られたが相手にせず、一条天皇の蔵人頭に抜擢される。以後天皇側近として活躍。
寛仁4年(1020年) 極官の正二位権大納言に至る。
万寿4年(1027年) 死去(藤原道長と同日)。 
 
・政治史上の位置づけ
藤原北家摂関流に生まれながら、出生後まもなく父祖を失い、一族の没落を受けて青年期は沈淪した。しかし親友源俊賢の推挙によって地下から一条天皇の蔵人頭に抜擢されてから運が開き、恪勤精励を以って天皇(一条)・執政(道長)の両方に信任された。能吏として四納言の一に列す。ただし、晩年一条天皇が次期東宮に敦康親王を擁立して行成にその後見を期待したものの、行成は却って道長の意向を受けてその外孫である敦成親王(後一条天皇)の皇位継承を一条天皇に迫ったとされている。今に伝わる摂関期の貴重な基本史料である日記『権記』(ごんき)を残した功績も大きい。『枕草子』『大鏡』などに登場し、逸話は多い。
 
当時の実力者藤原道長もその書道を重んじ、行成が『往生要集』を道長から借りた際には「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。
 
ちなみに、道長と同日に死去したために、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、彼の死については気に留めるものが殆どいなかったと言われている。
 
 
・書道界の評価
小野道風・藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられる。和様書道の確立に尽力した、世尊寺流の宗家として評価される。
上代様の完成者。彼の書風は、小野道風や藤原佐理よりも和様化がさらに進んだ、優雅なものである。
 
 
・真跡
白楽天詩巻 - (白氏詩巻)(国宝)東京国立博物館蔵
本能寺切 - (国宝)本能寺蔵
後嵯峨院本白氏詩巻 - (国宝)正木美術館蔵
敦康親王関係文書 - (御物)行成の日記「権記」の自筆原本の一部と推定されている。
書状 - (重要文化財)個人蔵
など。いずれも、漢字体で、仮名は残っていないとされる。
 
 
・著作
庶務に通じていた行成は有職故実書『新撰年中行事』を著した。同書は後世盛んに利用され多くの逸文が知られているが、全体については伝存せず、散逸したものと考えられていた。しかし1998年、京都御所内東山御文庫に所蔵されていた後西天皇の宸筆『年中行事』という二冊の書物が『新撰年中行事』の写本であることが逸文との照合等により判明し、研究者の注目を集めている。
 
 
・系譜
父:藤原義孝 母:源保光の女
妻:源泰清の女(姉)
男子:藤原実経(998?-1045) 男子:藤原良経(1001-1058)
女子:源顕基室 女子:源経頼室
妻:源泰清の女(妹)
男子:藤原行経(1012-1050) 女子:藤原長家室(1007-1021)
妻:橘為政の女
男子:藤原永親(?-1083)
 
・伝記
『人物叢書 藤原行成』 黒板伸夫著、吉川弘文館刊
 
(出典)
 

 
高野切
 
高野切 第1巻 巻頭 五島美術館蔵高野切(こうやぎれ)は、平安時代後期、11世紀に書写された『古今和歌集』の写本の通称である。『古今和歌集』の現存最古のテキストとして、日本文学史、日本語史の研究資料として貴重であるとともに、その書風は仮名書道の最高峰として古来尊重され、日本書道史上もきわめて重要な作品である。
 
 
・概要
『古今和歌集』を書き写したもので、当初は20巻(和歌1100首前後)からなっていた。現存するのはその一部である。料紙は、上質の麻紙で、表面に雲母砂子(きらすなご)を散らしたものを用いている。麻紙は経典の書写に多く用いられ、和歌集の料紙として用いた例は少ない。
 
「高野切」などの「切(きれ)」とは美術史、書道史、茶道などの用語で、元来巻物や冊子本であった和歌集、漢詩集などの写本を、鑑賞用とするため切断し、掛軸に仕立てたり、手鑑(でかがみ)と称するアルバムに貼り込んだりしたものを指す。こうした鑑賞形式は、室町時代以降、茶道の隆盛とともに盛んになった。こうして切断された紙片のことを「断簡」と称するが、高野切本古今和歌集のうち、巻九の巻頭の17行分の断簡は豊臣秀吉が所持していた。この断簡は後に木食応其(もくじきおうご)に下賜され、高野山に伝来したため、「高野切」の名が生じた。この巻九巻頭の断簡は現存し、大阪の湯木美術館が所蔵する。
 
『古今和歌集』は和歌の規範として、平安時代の貴顕には必須の教養とされ、尊重されてきた。そのため写本も多く、平安時代にさかのぼる写本だけで約60種にのぼると言われているが、その中でも最古写本であり、書道の手本としても尊重されているのが高野切本である。
 
 
・筆者と書風
高野切の筆者は古来紀貫之(882-946)と伝承されてきたが、実際は貫之の時代より1世紀ほど後の11世紀の書写である。
 
近代における筆跡研究の進展により、高野切の筆跡は3種に分かれることが明らかにされており、便宜上、「第一種」「第二種」「第三種」と称されている。
 
『古今和歌集』は全20巻と序からなるが、高野切本の現存する巻は巻一、二、三、五、八、九、十八、十九、二十で、残りの巻は発見されておらず、失われたものと思われる。このうち、巻五(個人蔵)、巻八(山口・毛利博物館蔵)、巻二十(高知県蔵)の3巻のみが巻物として完存し(3巻とも国宝)、巻一、二、三、九、十八、十九は断簡として各所に分蔵されている。巻一の巻頭部分の断簡は東京・五島美術館の所蔵である。
 
 
<第一種>
第一種の筆者は現存する巻のうち、巻一、九、二十を担当している。古今集の冒頭の巻一と最後の巻二十を担当していることから、3人の筆者の中でもっとも地位の高い人物と推定される。筆者については藤原行成の子の藤原行経(1012-1050)とする説が有力だが、確証はない。第一種の書風は21世紀の今日に至るまで仮名書道の手本として尊重されている。書風は、秀麗温雅で、字形は直筆を主として、くせがなく、連綿(数文字を続けて書くこと)は控えめである。第一種と同筆または同系統の筆跡としては、大字和漢朗詠集切(諸家分蔵)、深窓秘抄(藤田美術館蔵)、和歌躰十種(東京国立博物館蔵)などがある。
 
 
<第二種>
第二種の筆者は現存する巻のうち、巻二、三、五、八を担当している。美術史家の小松茂美は第二種の筆者を源兼行(1023-1074頃活動)と推定した。九条家本延喜式の紙背文書(しはいもんじょ)中の兼行の筆跡との一致など、さまざまな観点から、兼行を筆者とする説はほぼ定説化している。高野切の3種の筆跡のなかではもっとも個性が強く、側筆を多用した右肩上がりで肉太の字形に特色がある。第二種と同筆または同系統の筆跡としては、平等院鳳凰堂壁画色紙形、桂宮本万葉集(御物)、雲紙本和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、関戸本和漢朗詠集切(諸家分蔵)などがある。
 
 
<第三種>
第三種の筆者は現存する巻のうち、巻十八、十九を担当している。筆者については藤原公経(?-1099)とする説もあるが、なお未詳である。書風は穏やかで、高野切の3種の筆跡のなかでは、もっとも現代風であると評されている。第三種と同筆または同系統の筆跡としては、粘葉本(でっちょうぼん)和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、元暦校本万葉集巻一(東京国立博物館蔵)、伊予切(和漢朗詠集の断簡、諸家分蔵)、蓬莱切(未詳歌集の断簡、諸家分蔵)、法輪寺切(和漢朗詠集写本の断簡、諸家分蔵)などがある。
 
 
(出典)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%88%87
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