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この記事は、「行書体」についてまとめたものです。
制作:harukazehonpo.hfuoe 行書体(ぎょうしょたい)とは
漢字の書体の一つ。楷書が一画一画をきちんと書いているのに対し、行書体ではいくらかの続け書きが見られる。しかし、草書のように、楷書と大幅に字形が異なるということはないために、楷書を知っていれば読むことは可能である。
概要
行書は隷書の走り書きに興る。王羲之などの書が有名。行書は草書と楷書の中間的な存在であるが、明確な線引きは不可能である。草書に比べて厳格な書体、楷書に対して砕けた書体という感覚的な違いで大まかに分類される。行書は草書ほどではないが速記向きであり、楷書ほどではないが明快に判読できることから、古代中国では公務文書や祭礼用の文書に用いられた。
代表作
詩歌の巻頭言の草稿として王羲之が著した『蘭亭序』や、北周の詩を清書した褚遂良の『枯樹賦』、内乱で惨殺された甥の祭礼に備えて書いた顔真卿の『祭姪文稿』などが代表的な書作品である。空海と最澄が交わした行書書簡、『風信帖』と『久隔帖』はともに国宝である。
碑文
日常的な書体とみなす意識が強く、文書としては広く流布しているが、碑文となると唐太宗皇帝が書いた『晋祠銘』が現在知られる最も早い行書碑である。王羲之の行書を集字・編集した『集王聖教序』も第三者の手が入っているとはいえ数少ない行書碑の一つといえる。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%9B%B8より抜粋)
行書を歴史的に見た場合
時たま、「楷書をくずしたのが行書、その行書をもっとくずしたのが草書」といった理解をしている場合が見られるが、これは必ずしも正しいとは言えない。特に、行書をくずしても多くの場合草書にはならない。また、楷書をくずすと行書になるというのは、ある部分で 妥当な表現であるが、その発達過程からすると正しくない。
手書き文字の書体を大まかに分類すると、篆書・隷書・楷書・行書・草書の5つに分けることができる(右図)。もっとも、この分類も現代の視点から見てのことであるし、また本来的にいって厳密に分けることはできない。なぜなら書体は字形上確立されたスタイルを分類したものであり、字体上の差異がある場合はともかく、それがない場合は分類に明確な基準を持たないからである。本稿では、大まかな分類により話を進める。
この5つの書体は、二つに分けることができる。一つは正式な場面に使ういわゆる正書体、もう一つは事務作業・メモ・書簡などに使ういわゆる通行書体である。(通行字体という概念もあるが本稿の趣旨と異なるため省略する。) 正書体は、篆書・隷書・楷書、通行書体は行書・草書となる。
手書き文字・漢字の歴史は現在のところ約3000年とされるが、それぞれの時代に正書体と通行書体が存在していたと考えられる。特に篆書の初期・中期をのぞいてその存在を確認することができる。もちろん、歴史的に見ると書体の発達過程には、現在分類されるような形での書体が成立していない時期もあるが、機能的には正書体・通行書体があったという意味である。
さて、書体の発達過程については、「正書体が完成すると、略されて通行書体ができた」のであろうか、それとも「日頃使われる通行書体が完成に近づくにつれて、正書体として認められるようになった(正書体に影響を与えた)」のいずれの考え方が正しいであろうか。文字史・書法史上からみて、後者が正解といってよい。正式な場面で使う書体は、格式を重んじるためか伝統が重視され、なかなか変わろうとしない。それに対して、日常用いられる書体の方は使いやすいように変化し、仮に歯止めをかけようとしても効かなかったのであろうと思われる。また、行書の完成期は、楷書の発達期と一致しているので字体的にも近い関係にあるが、草書の発達期はそれに先駆けているため字体の相違が多い。そのため、楷書・行書をいくらくずしても草書にはならないし、草書を読むためには草書の字体を覚えなければならない。
(http://www.shosha.kokugo.juen.ac.jp/oshiki/ronbun/Gyosho&Gendai1998/より抜粋)
書物として漢字には、「楷書・行書・草書・隷書・篆書」の五書体というものがあり、我々が日常で見る書体は楷書と行書である。今回は行書について歴史から運筆法まで触れます。
まずは、行書の歴史について触れてみましょう。一般的に楷書を速書きした書体が、行書や草書であると思われがちです。それでは書体の歴史をたどってみると、その誕生は少し違っているようです。
漢字の発祥地中国の漢(前漢・後漢)時代(紀元前二〇〇年頃~紀元後二〇〇年頃)は、隷書が基本書体として使用されていた。それ以前に使用されていた篆書に比べるとかなり能率よく書くことが出来ましたが、時代が進むにつれて速書きが出来る書体が求められ、楷書と草書の元になる形になる形が誕生した。
行書は、この二書体の長所を生かした実用書体として、後漢時代に生まれたと考えられている。その後、東晋時代(三一六年~四二〇年)の能書、王羲之(おうぎし)等の出現によって用筆・字形が洗練され、一つの書体として完成されていったのです。
(http://www.oct-net.ne.jp/~kyouhei/shoden-page2.htmより抜粋)
■王羲之
王羲之は山東省の琅邪臨儀沂の豪族出身です。仕官して右軍将軍の位にあったことがあるので王右軍ともいいます。出世を望まなかった彼は自ら地方官に転出し、会稽内史をつとめました。良吏としての評判も高かったのですが、早くに官を辞し、風光明媚で気候も温順なその地会稽で晩年を過ごしました。道士達と交流しながら悠々自適の生活を送ったといわれています。
彼の本領はやはり書であり、幼少の頃から上手く、彼の師匠である衛夫人も才能には一目置いていたそうです。三国から西晋にかけては行書、草書が広く行われていました。その流れをうけてこれらの書体は一層美しく洗練されていくことになります。草書・行書・楷書の美的工夫は、必然として用筆法の多様化を生みました。これらは書にとって大きな進展であり、他の追随を許さない羲之の貢献度は計り知れないものがあります。
王羲之は行書体、草書体において特に評価が高いですが、楷書においても才能を発揮されており、章草もよくしたといいます。さらに唐に書かれた晋代の正史、「晋書」には王羲之について「尤も隷書を善くし・・・」とあり、彼がほとんどの書体に通じていたことが分かります。また、王羲之の書が日本書道に与えた影響は計りしれません。例えば空海の書法の基本は王羲之に影響されたことが大きいようです。
王羲之は、唐以前の能書「古今四傑」の一人であり、中でも第1人者であると多くの書論書の中で語られています。ちなみに、彼の第7子である王献之とともに二王とも称されています。
以下は王羲之の評価を紹介したものです。
●羲之の書は、骨格や肉付きについてその加減はやりすぎるほどゆきとどき、紅やおしろいをつけていないような清らかさがあり、あたかも、かの雲間をわけて輝く太陽を見るかのごとく、また、はちすの花が泥水からぬけでたようである。(唐・李嗣真「書後品」
●行書体のように曲線美を表現出来る名手の第一は、やはり何と言っても王羲之をおいて他にはなかろうか 。点画の形成は理想的で過不足無く、情緒性豊かな作風で、また勢いがあり、ホウショ(鳳凰が高く飛ぶさ ま)・リョウバン(豪傑の野に潜み居ることのたとえ)のたとえも引くことができよう。愛翫鑑賞するに汲めども尽きない魅力があり、手本として尊敬して習うにはこの人を置いて他にない。その他は論外である。(太宗は、羲之の名品中、ことに行書「蘭亭序」を愛好しましたが、その評の一節。「晋書」
●羲之の筆法は自由自在、融通無碍にして意のままに筆を運んでいる。用筆の常識を超えた神秘の力を持したものといわんばかりである。(宋・黄庭堅「山谷題跋」)
(http://www.osakakyouzai.com/jinbutu1.htmより抜粋)
主な法帖
楷書
●楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年)
戦国時代の燕の宰相であった楽毅の言行を、三国時代の魏の夏侯玄が論じたもので、羲之の小楷として第一位に置かれる。日本では光明皇后の臨書したものが正倉院の御物として遺されている。
●黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年)
後漢の漢安2年(143年)、水死した父の屍を求めて投身した孝女曹娥の事跡を表彰したもので、羲之の書であるというが確証はない。南宋になってはじめて出土した。
●東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)
●孝女曹娥碑(こうじょそうがひ) - 升平2年(358年)
後漢の漢安2年(143年)、水死した父の屍を求めて投身した孝女曹娥の事跡を表彰したもので、羲之の書であるというが確証はない。南宋になってはじめて出土した。
行書
●蘭亭序(らんていじょ) - 永和9年(353年)
●集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)
『集王聖教序』ともいう。唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門(しゃもん、僧)懐仁が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。
羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
●興福寺断碑(こうふくじだんぴ)
唐の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「矣」の字を「呉」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。
●喪乱帖(そうらんじょう)
王羲之の手紙の断片を集めたもので、『喪乱帖』8行、『二謝帖』5行、『得示帖』4行の計17行が一巻になっている。書簡のはじめに「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤塡墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。現在、日本で御物になっているが、右端の紙縫に「延暦勅定」の印三顆(いんさんか、印は顆で数える)が押捺されているところから、桓武天皇の御府に既に存在していたことが分かる。
●孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
『哀禍帖(あいかじょう)』『九月十七日帖』『憂懸帖(ゆうけんじょう)』の三帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤塡墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印三顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
●快雪時晴帖(かいせつじせいじょう) ●姨母帖(いぼじょう)
●奉橘帖(ほうきつじょう)
草書
●十七帖(じゅうしちじょう)
王羲之の手紙29通を集めて一巻としたもので、蜀郡の太守の周撫に与えた手紙が多い。初行に「十七日」の句があるのでこのように呼ばれる。草書として最高の作品といわれている。
●游目帖(ゆうもくじょう) ●初月帖(しょげつじょう)
●寒切帖(かんせつじょう) ●遠宦帖(えんかんじょう)
●妹至帖(まいしじょう)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8Bより抜粋)
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